雑誌「現代ギター」の「ギターの音の遠達性」記事について(下)【ギタリストのための音の科学 20】
前回は、雑誌「現代ギター 2018年10月号」の「ギターの音の遠達性」記事の前半パートについて所感を述べました。
今回はその続きで、記事の後半パートについて。
後半パートは日本を代表するクラシックギタリストの福田進一さんへのインタビューで、ギタリストの感性から「遠達性」について語られています。
そのインタビューでナクソス(世界最大のクラシック音楽レーベル)のエンジニア氏(おそらく、録音エンジニアではないかと思います)の話が紹介されています。
そのエンジニア氏はノバート・クラフトというカナダの方だそうですが、私は実はノバート・クラフトさんをエンジニアとしてではなく、ギタリストとして知ってました。私が持っているギターの曲集(CD付き楽譜)がナクソスの膨大なギターCDから練習用の曲を集めて作られていて、そのうちの何曲かが Norbert Kraft の演奏でした。
Norbert Kraftさん、演奏者として何故か印象に残っていたんですよね。しっかりかっちり隙なく弾くタイプのギタリストで、そういう意味ではアマチュアギタリストがお手本にするには良い演奏者ではないかと思います。
その Norbert Kraft さんがナクソスのエンジニアだったことはこの記事で初めて知りましたが、遠達性について興味深いコメントが福田進一さんの口から紹介されています。引用します。
彼は「ニードル」、つまり針のような、という言い方をしますけど、「澄んでいて端までツーンと行くような、コアがあって、周りに雑音が付いていない音は遠くへ飛ぶ」……そういう説明をよくすると言ってますね。
これは福田進一さんの発言で、「彼」とは Norbert Kraft さんのことです。Norbert Kraft さんは「澄んでいて端までツーンと行くような、コアがあって、周りに雑音が付いていない音は遠くへ飛ぶ」というように遠達性を捉えているわけです。
この「コアがあって、周りに雑音が付いていない音」って、私が遠達性の仮説として提示し「倍音成分が小さい音は遠達性が高い」と同じことを言っている気がしませんか?
コアは基音、倍音(の少なくとも高次成分)は雑音と読み替えると、同じ主張になります。私はそう解釈して、勝手に「おお、Norbert Kraft さんと同じ結論だ!」と喜んでます。
実はこの記事、上記の引用部の直後に、私の仮説である「倍音成分が小さい音は遠達性が高い」方面とは逆に、前半パートの岡村宏氏の仮説の方に行ってしまいます。
――別の記事を書かれた岡村宏先生も、弾いた瞬間の倍音構成のまま、減衰していく形が、遠くでもはっきりと聴こえる、よく鳴るギターだと。
これは福田さんではなく、インタビュアーさんの科白です。
Norbert Kraft さんの見解と岡村宏氏の仮説を同等に捉えるのは、なんぼなんでも無理があると思います。どちらが正しいかは別としても、あるいは両方とも正しいとしても、少なくとも全然別の事を言ってます。
岡村さんは、高次の倍音の(経時の)減衰が基音の減衰よりも大きくない(つまり減衰しにくい)パターンを遠達性に繋げていますが、Norbert Kraft さんは「コアがあって、周りに雑音が付いていない音」ですから、全然違います。
ともあれ、私個人としてはNorbert Kraft さんの「コアがあって、周りに雑音が付いていない音は遠くへ飛ぶ」説は支持したいと思いますし、私の仮説と同等ではないかと思う次第です。
雑誌「現代ギター」の「ギターの音の遠達性」記事について(上)【ギタリストのための音の科学 19】
先日このブログでギターの音の遠達性について書きました。
この記事を書いている途中で気づいたのですが、雑誌「現代ギター」の2018年10月号で「ギターの音の遠達性」という特集がされていたのでした。以前は「現代ギター」誌を毎月買っていましたが、ここ数年はご無沙汰していたので、この特集があったことは知りませんでした。
というわけで、私の遠達性に関する考察は、現代ギターの記事の影響は全く受けていませんが、 ギター専門誌が遠達性についての特集記事を掲載しているのですから、その内容は気になります。バックナンバーを購入して読んで見ましたので、所感を述べたいと思います。下記は現在ギターの通販サイトで、バックナンバーも購入可能です。
「現代ギター」2018年10月号の「ギターの音の遠達性」特集はふたつのパートに分かれていて、前半は芝浦工業大学名誉教授の岡村宏氏へのインタビューで遠達性を科学的に探り、後半はギタリストの福田進一氏へのインタビューで演奏者の立場で遠達性に関する経験を語ってもらう、という構成です。
まず前半の岡村氏へのインタビューですが、岡村氏は冒頭で次のように述べています。(以下、引用は全て「現代ギター」2018年10月号の「ギターの音の遠達性」から)
ギターの遠達性自体を研究テーマにしたことはまだないのですが、ギターのさまざまな鳴り方を調べた経験から、私なりの考え方を述べることはできると思います。
ご本人が「ギターの遠達性自体を研究テーマにしたことはまだない」とおっしゃっている通り、このインタビュー全体が、遠達性に関する研究や実験結果に関するものではなく、(遠達性に関係しているかもしれないと岡村氏が考える)音の経時減衰に関するものです。括弧内の「関係しているかもしれない」は自明ではありません。むしろ、そこが問題だと私は思ってます。
経時減衰と太字にしましたが、ここ重要です。特に経時が重要です。
インタビューからの引用を続けます。
―― つまり弾弦直後の包絡線の形が長く続くほど、遠くでも聴こえる「遠鳴り」のギターということでしょうか?
岡村 そうであろうと推測しています。逆に、弾弦直後に包絡線形状が崩れる現象があると、「そば鳴り」のギターと称し、遠達性に課題があると言われるのでしょう。
ここで「遠鳴り」「そば鳴り」という言葉が出てきますが、前者は遠達性の高い様子を表し、後者は遠達性の低い様子を表しています。また、包絡線とは基音、2倍音、3倍音、……のピークを繋いだ線をそう呼んでいます。下図の山の頂上を繋いだ折れ線が包絡線です。
この包絡線の形状が経時変化で崩れないこと、もちろん、全体的には経時減衰はするのですが、周波数によって減衰率が大きく違わないことが遠達性に繋がるという推測を、岡村氏は述べています。ただし、包絡線形状の保存が遠達性に関連する根拠は特に述べられてはおらず、包絡線形状の変化に関する実験について、
試験目的が違っていましたので、残念ながら、遠達性については評価されていません。
と述べています。そもそも、包絡線形状の経時変化実験は「音色の伸び」の評価のために行ったとのこと。包絡線形状(=各倍音の割合)は音色を決める重要な要素なので、その経時変化で「音色の伸び」(=音色の経時変化の少なさ)を測ることは理にかなっています。でも、それが遠達性と関係するかどうかは別問題です。
遠達性を評価するためには、遠達性どう定義するのかが第一歩で最も重要だと思うのですが、本当に残念なことに、遠達性の学術的定義はありません。ありませんので、私なりに妥当と思える定義なり考え方で遠達性のエントリーを書きました。
「遠達性」の謎に迫る(上)【ギタリストのための音の科学 15】では、遠達性を左右する要素として以下の3つを挙げました。
- 音の大きさ
- 音の指向性
- 音の質
包絡線が崩れないことを遠達性と結びつける議論は、1の音の大きさと3の音の質に関わる議論です。「音が大きければ遠くまで聴こえる」のは自明として、包絡線議論は絶対的な音の大きさだけではなく、倍音成分の比率が保たれていることを遠達性に結びつけています。
その根拠は示されていませんし、岡村氏も遠達性の評価はしていないと認めているのですが、あえて反論するのなら、「包絡線が形状が崩れない=倍音成分の比率が保たれている」というのは経時減衰の話であって、遠達性に直接関係する伝達距離に依存した減衰については何も言っていないのです。
つまり、本来は距離に関係した話なのに、時間に関係する話に変換してしまっている点で、包絡線議論は不十分と言わざるを得ません。包絡線形状が保たれることが、何らかの機序により距離に依存した減衰に関係する可能性は否定しませんが、その機序が示されない限りは、「包絡線の形状が崩れない程、遠達性に優れる」という仮説を提示する根拠は希薄だろうと思います。
以上が、私が「現代ギター」2018年10月号の「ギターの音の遠達性」記事前半を読んでの所感です。
ちなみに「遠達性」の謎に迫る(下)【ギタリストのための音の科学 16】では、
- 周波数が高い音(高音)ほど減衰率が大きい
という機序に基づき(根拠は音響工学の論文および流体力学的、波動論的考察)、「倍音成分が小さい音は遠達性が高い」という仮説を提示していますが、ここで言う減衰率とは経時の減衰ではなく、音の伝達距離に依存した減衰です。
つまり、私の遠達性議論は「音の伝達距離に依存した減衰の大小」の話になっている、ということです。
次回は、「現代ギター」2018年10月号の「ギターの音の遠達性」の後半についての所感を述べたいと思います。
純正律和音と平均律和音の違いを「公倍音」で見る【ギタリストのための音の科学 18】
「波形グラフで見る和音の響き」では、純正律と平均律の和音の違いを音波の波形で比べてみました。
今回は別のアプローチで和音を可視化してみたいと思います。
既に何回もこのブログで取り上げたように、ギターやそのほかの楽器の音は、特定周波数の基音と各種の倍音(2倍音、3倍音、……)の重ね合わせで出来ています。例えば、5弦開放のA=110Hzの音は110Hzだけではなく、110Hz(基音)、220Hz(2倍音)、330Hz(3倍音)、……の音が合わさって鳴っています。
従って、3つの音から成る和音を考えると、3つの音の各倍音を含めた多くの周波数の音が同時に鳴り、数学で言う公倍数のように、「公倍音」が存在するかもしれません。
例えば、Aメジャーのコードはの3音から成りますが、A=110Hzとすると、C#=137.5Hz、E=165Hzで(純正律的に考えた場合です)、それぞれの倍音の周波数は下表のようになります。
音名 | 基音 | 2倍音 | 3倍音 | 4倍音 | 5倍音 | 6倍音 | 7倍音 | 8倍音 | 9倍音 |
A | 110 | 220 | 330 | 440 | 550 | 660 | 770 | 880 | 990 |
C# | 137.5 | 275 | 412.5 | 550 | 687.5 | 825 | 962.5 | 1100 | 1237.5 |
E | 165 | 330 | 495 | 660 | 825 | 990 | 1155 | 1320 | 1485 |
赤文字の周波数は「公倍音」とでも言うべきものです(この表の範囲内だけでの)。例えば「A=110Hzの3倍音」と「E=165Hzの2倍音」は両方とも330Hzで「公倍音」です。
この表はAメジャーの和音を純正律的に作りました。すなわち、周波数の比が、になるようにしています。ですから、公倍音がこんなにきれいに現れます。
このの和音を鳴らした時の、倍音も含めた周波数のスペクトル(成分の分布)をグラフ化してみます。
まずは、の3音それぞれのスペクトルを見ます。実際の音を測定するのではなく、スプレッドシートを使って計算して、それをグラフにしました。
このピークの形はガウス関数ってやつを使って作ってみました。まあ、大体こんな形でしょう。ピークの幅とか、倍音の減衰は適当に設定しました。縦軸はdbのように対数軸にはしていません。
あまり厳密なグラフじゃありませんが、公倍音を見るには十分です。赤文字の公倍音の部分が重なっているのがわかると思います。
それでは、これらの音を重ねてみましょう。
当たり前ですが、公倍音はキレイに重なってピークが高くなっています。
さて、ここまでが純正律的な和音の話です。ギターやピアノのような平均律楽器では、一般的には出せない和音ということになります。
その平均律での和音を見てみましょう。各音とその倍音の周波数は下表のようになります。
音名 | 基音 | 2倍音 | 3倍音 | 4倍音 | 5倍音 | 6倍音 | 7倍音 | 8倍音 | 9倍音 |
A | 110 | 220 | 330 | 440 | 550 | 660 | 770 | 880 | 990 |
C# | 138.59 | 277.18 | 415.77 | 554.37 | 692.96 | 831.55 | 970.14 | 1108.73 | 1247.32 |
E | 164.81 | 329.63 | 494.44 | 659.26 | 824.07 | 988.88 | 1153.70 | 1318.51 | 1483.32 |
純正律では公倍音が現れていましたが、平均律では微妙なズレによって公倍音は現れません。これをグラフにするとこうなります。
そして、音を重ねるとこうなります。
純正律の和音に比べて、公倍数の部分でのピークがずれて低くなっているのがよくわかります。330Hzのところでのズレは小さく判別できない程ですが、550Hzのところや825Hzのところでは明らかなズレを見て取ることが出来ます。
倍音領域におけるこのズレは、純正律和音と平均律和音の、我々の感覚での差としてはかなり大きな部分を占めているのではないでしょうか。
人間の声は純正律を出せますので、公倍音を発生させることができるわけですが、合唱などでハーモニーが合った時のぐおーんと増幅される感じ(歌っていても聞いていても快感ですよね)は、公倍音の共鳴でピークがどーんと高くなっている事象の反映ではないかと思います。
量子アニーリング方式の限界? NUMAがSMPにはなれない話に近いような…
本日、ITmediaに以下のような記事が載りました。
要するに量子アニーリング方式の量子コンピューターにはもう将来はない、という趣旨の内容です。
具体的に誰がどうと言わずに「海外は〜〜」というのは何やら出羽守っぽいのですが、主張の内容には頷ける点も多々あります。ただし、量子アニーリング方式に関しては、数年前はこんな記事もありました。(有料記事ですが読めるとこまで読んでみてください)
かなり限定的な条件ではあるものの、「1億倍高速」というのは衝撃的で、それまであったD-WAVEに対する疑念を払拭するに十分なインパクトがありました。
でも、この記事をよく読むと有料部分になるちょっと前に、Googleのエンジニア氏の発言として、以下のようなことが書かれています。
「現在のD-Waveの量子コンピュータは、量子ビットの相互接続の在り方に制約があるため、複雑な組み合わせ最適化問題を高速に解くことができない」
量子ビット間のインターコネクト(相互接続)が、全ての量子ビット間にあればよいのですが【 n (n - 1) / 2 個の接続が必要になります】、実際はそこまでは用意されておらず、それが量子アニーリングのアルゴリズムを実装する上での障害になるわけです。
この量子ビットのインターコネクト不足、あまり詳しい事はわからないのですが、どうやら簡単には解消できないようです。何千、何万もの量子ビットの全てを結ぶのは、電気回路の作りとしては相当に複雑になります。
マルチCPUシステムについてご存知の方なら、次のような例えがわかりやすいかもしれません。
SMPアーキテクチャ(正確に言うと、SMPのUMAアーキテクチャ)はCPU数が増えるとインターコネクトが複雑化し、性能上のボトルネックになることがあり、その解消のためにNUMAアーキテクチャ(正確に言うと、SMPのNUMAアーキテクチャ)を採用することがあります。
D-WAVEの量子アニーリングシステムでは、各量子ビットをSMP的に繋ぐことは諦めて、NUMAノード・クラスターの様に繋いでいます(結構乱暴な例えなので、専門家の方からは怒られるかも)。ただし、それが障害になって、量子アニーリングのアルゴリズム実装の自由度が大幅に下がってしまっている、という事情です。
何千ものCPUのSMPシステムを作ろうとすると、十分な性能を確保しながら、それらのインターコネクトを実装するのはほぼ不可能ですが、D-WAVEの量子ビット間インターコネクトも似たような理由で全量子ビットを直接繋ぐことが出来ないようです。
というわけで、量子アニーリング方式の限界については、個人的に現時点では説得力を感じています。少なくとも、何らかのブレークスルーがなければ、量子アニーリング方式の応用範囲が実用的にはならないように思います。
また、量子アニーリングの原理の肝に量子トンネル効果というのがあるのですが、量子アニーリング方式の説明を読むと、その量子トンネル効果が都合よく起こることが前提になってまして、「トンネル効果は確率的事象なのに、そんなに都合よく起こるのか? 逆向きのトンネル効果だって起こりうるし、確率的にゼロに近いことだってあるし」と懐疑的だったりもします。
原理的な部分を疑っているのではなく、実用化する上で十分に確からしい計算が可能なのか、という意味です。
念のために付け加えると、量子アニーリング方式の量子コンピューターはやや亜流の量子コンピューターでして、応用範囲範囲が狭いことと引き換えに実装が比較的楽という特徴があります。一方、量子コンピューターの保守本流である量子ゲート方式は、応用範囲が広いのですが実装は非常に難しく、まだまだ研究室レベルでも極めて少ない量子ビット演算しか実現できていません。
今回のお話は、量子アニーリング方式の将来性に関するお話でした。
ともあれ、D-WAVEと量子アニーリング方式の今後については、注目して行きたいと思ってます。
新しい弦と古い弦の音の違いをグラフで見る【ギタリストのための音の科学 17】
クラシックギターに限らず、ギターの弦を新しいものに交換すると気分が良いものです。新しい弦に特有の、明るいというか、輝かしいというか、シャリンとしたというか、そういう音がします。
逆に言うと、張ってからしばらく(数週間〜数ヶ月?)経った弦は、暗いというか、輝きのないというか、ドヨンとしたというか、そういう音がします。
こういった表現はまったく科学的ではなく、極めて感覚的な表現です。もちろん、感覚的な表現が悪いわけではなく、こういう感覚的表現であっても、その感覚が共通であれば、それはそれで便利ではあります。
ただ、ブログ記事のタイトルに「ギタリストのための音の科学」を掲げるのであれば、感覚的な表現の正体を科学的に解明すべきと考えます。
というわけで、新しい弦と古い弦の音の違いを科学的に表現することにチャレンジしてみます。実際に新しい弦と古い弦の音を測定して、どういう違いがあるか調べてみましょう。
以下が測定の詳細です。
高音弦測定 | Savarez Allianceの1弦開放 E = 330Hz |
低音弦測定 | Savarez Corumの5弦開放 A = 110Hz |
弦が新しい状態での測定日 | 2019年3月2日 |
弦が古い状態での測定日 | 2019年5月18日 |
ギター | 2007年制作 小林一三 No.50 |
解析ソフトウェア | Audacity |
マイク | iMac ビルトインマイク |
なお、低音弦のSavarez Corumは個人的な経験に基づく感覚としては、極めて経時劣化しにくい、長持ちする弦です。従って、他の弦よりも新しい弦と古い弦の差が出にくいかもしれません。
それでは早速、測定結果を見てみましょう。
まずは1弦開放。
1弦開放(330Hz)の場合、2倍音、3倍音……、だけではなく、1/3倍音、2/3倍音も出ています。新古の差として明らかなのは、古くなると2倍音がやや出なくなっていますが、倍音全体的には大きな差はないとも見えます。倍音以外では、古くなると60Hz以下のバックグラウンド成分も出なくなっていますが、元々のdbが低いので、人間が聞く音としては大きな影響はないかもしれません。
概して、1弦の場合は新古の差があまりないグラフに見えますが、それは我々の「高音弦の音はは経時劣化しにくい」という感覚あるいは経験則とも一致しています。
続いて5弦開放を見てみます。
5弦開放(110Hz)の場合は、1弦開放とは様子が異なります。まず、古い弦では4倍音(440Hz)のピークが極端に低くなっています。5倍音(550Hz)のピークも低いですね。また、60Hz以下の低音部バックグラウンド成分は、1弦とは逆に古い方が大きくなっています。全体的に1弦の低音部バックグラウンド成分よりはdbが高めなので、この差は人間にも感じられるかもしれません。
新しい弦に比べて、4倍音、5倍音が小さくなることで、明るいとか輝かしいとかいう新しい弦の特徴が失われ、低音部バックグラウンド成分が増えることで、どんよりした音になっているものと思われます。
上記の測定結果およびその考察については、科学実験としては不十分な点が多々ありますので、これが正しいと言い切るものではありませんが、弦が古くなると我々が感じる音の変化について、まがりなりにも測定を行い、新古のスペクトルの違いで考察し、感覚との一致を見た価値はあるものと思います。
「遠達性」の謎に迫る(下)【ギタリストのための音の科学 16】
前回の『「遠達性」の謎に迫る(上)』の続きです。まだ読んでない方はそちらから先にお願いします。
いわゆる「遠達性」について、音の質が影響しているという可能性を考えていて、私は「これこれこういう音は遠達性が高い」という仮説を持っていました。ただし、その仮説を実証する実験も出来ませんし、その仮説の理論的裏付けもありませんでしたので、それは自分の頭の中だけにしまっていて、誰にも話したことはありませんでした。
その仮説とは、
- 倍音成分が小さい音は遠達性が高い
です。
感覚的には、音のエネルギーが同一ならば、そのエネルギーが様々な倍音に分かれてしまうよりも、基音(主音)に全体のエネルギーが集中していた方が、音が遠くまで届きそうに思えたのでした。実際には倍音をゼロにすることは出来ませんので、倍音成分が弱い音(基音のエネルギーの割合が大きい)が遠達性が高いということになります。
最近まで、私はこの仮説に根拠を見出すことが出来ませんでしたが、ついこの前、遠達性についてぼんやりと考えている時にあることを思いつき、調べてみたらその思いつきが正しいということが分かりました。
その思いつきとは、
- 周波数が高い音(高音)ほど減衰率が大きい
です。
音のエネルギーは基本的に伝達距離の2乗に反比例するように減衰していきます(ただし、人間の聴覚はその対数をとったように感じます)が、距離だけの問題ではなく、周波数が高い音(高音)は、周波数が低い音(低音)よりも減衰率が高い(急に減衰する)のではないかと思い至ったのでした。
減衰率と周波数の関係については、ネット上にいくつもの文献、論文がみつかりますが、例えば「屋外の音の伝搬における空気吸収の計算」があります。
この記事はあまり簡単ではないので、直感的に理解しやすい説明をすると(多少は厳密さを欠きますが)、以下のようになります。
- 音は空気の振動が伝わる現象である
- 空気にはわずかに粘性があるため、振動に対する摩擦のような抵抗(粘性抵抗)がある
- 周波数が高い音は振動回数が多いため単位時間あたりに受ける抵抗総量が大きくなる
- 従って、周波数が高い音は速く減衰する(減衰率が高い)
どうでしょう、周波数が高い音(高音)が速く減衰するイメージが出来ましたでしょうか?
お風呂に入って湯船に小刻みな波を立てると、その波はすぐに減衰して消えてしまいますが、ゆったりと揺れる波を作ると、それは長時間そのまま揺れ続けますよね? 水の粘性抵抗があるため、小刻みな(周波数が高い)波は速く減衰してしまうのです。
このように、周波数の高い音の減衰率が高いと、基音よりも2倍音、2倍音よりも3倍音の方が速く減衰してしまいます。ですから、主音の割合が大きい(=倍音成分が小さい)音の方が音全体としては減衰率が低く、それは即ち「遠達性が高い」ということになります。
この「振動に対する抵抗」の他にもうひとつ、別の意味での減衰に関係することがあります。
それは障害物に対する透過性です。コンサートホールなどでは演奏者の音は人や椅子で遮られます。ただし、音(=波)には障害物を回折する(障害物の影に回り込んで伝わる)性質があり、障害物で完全に遮られるわけではありません。
この回折現象ですが、これもまた周波数に関係していて、周波数の低い波(波長が長い波)ほど障害物の影響を受けにくく、周波数の高い波(波長が短い波)ほど障害物の影響を強く受けます。つまり、低音ほど障害物の影響で減衰しにくい、ということです。(高校の物理でも出てきた気がします)
マンションで楽器の練習をすると、隣の部屋には低音がよく伝わる理由のひとつが、この回折性の違いです。
上記の2点、
- 振動の抵抗による減衰率は高音の方が大きい
- 障害物による減衰率は高音の方が大きい
によって、「倍音成分が小さい音は遠達性が高い」の裏付けが出来たと思います。
残念ながら、私がこの仮説を実験で確かめることは設備面で出来ませんが、それなりに説得力のある仮説になったとは思います。
「倍音成分が小さい音は遠達性が高い」が正しいとすると、「アルアイレとアポヤンド、そしてパコ・デ・ルシアの音」で書いたように、アポヤンドの方がアルアイレよりも遠達性が高い、ということになります。これは多くのギタリストの実感とも一致するのではないでしょうか?
以上、2回に渡って遠達性について考察してみましたが、いかがでしたでしょうか? 遠達性の議論について、ある程度信頼性のあるベースを作ることは出来たのではないかと思います。
「遠達性」の謎に迫る(上)【ギタリストのための音の科学 15】
「遠達性」という言葉があります。多くはクラシックギターの特徴として、「遠達性がある」とか「遠達性が低い」などと使われます。他の楽器でも使われることがあるのかもしれませんが、Google検索の結果では、ほとんどがクラシックギターに関しての言及です。
遠達性という言葉には厳密な定義はないようですが、字義的には「音が遠くまで達する(ギターの)性能」というような理解でかまわないのではないかと思います。コンサートホールなどで、後ろの席でもよく聞こえるかどうかを表す時に、遠達性という言葉を使う人が多いようです。
一般的に、遠くまで音を届けるような演奏技術ではなく、ギターの性能として遠達性が語られます。
クラシックギターはもともと音があまり大きくないので、それなりの大きさのホールでの演奏では、後ろの席に音を届けることが重要な課題になります(音質面で、PAを使いたくないギタリストが多いのです)。だからクラシックギターについて遠達性が語られることが多いのでしょう。ピアノのような大きな音が出る楽器、エレキギターのように電気的に音を増幅することが前提の楽器では、遠達性を話題にすることはほとんどないと思います。
さてこの「遠達性」ですが、謎の概念です。そもそも定義がしっかりしていない上に、音響学的な研究があまり行われていないのか、理論的な裏付けが語られる事もほとんどありませんし、どういうギターどういう音が遠達性に優れるのかの議論にも定説がありません。プロのギタリストでも、遠達性について理路整然と語れる方はほとんどいないと思います。
ギタリストも評論家もギターショップ関係者も、個々のギターについて「これは側鳴りばかりしていて遠達性が低い」と言ったり、特定の製作家のギターを「○○さんのギターは遠達性に優れる」と言ったりはありますが、遠達性のカラクリを合理的に説明している人は見たことがありません。
というわけで、遠達性の謎に迫ってみたいと思います。
そもそも、私が最初に遠達性という言葉を聞いた時の感想は、「遠達性? 音がでかければ遠くまで届く、ってだけのことでしょ?」でした。つまり、ギターの性能として「大きな音が出る」はあっても、「遠くまで届く」は意味がないと思ってました。
ただ、色々な方のお話を聞いたり、雑誌やブログの記事を読むと、音の大きさとは独立して、音が遠くまで届くか否かの差が(耳の肥えた人には)歴然とあるらしいのです。こういう人間の感覚は決してバカに出来ないもので、かなり精密な測定を行ってもわからないようなことでも、人間は知覚可能だったりします。
私も徐々に「ギターの性能として、あるいは音の性質としての遠達性は存在する」と思うようになって行ったのですが、その理論的な裏付けはさっぱりわかりませんでした。ブログや雑誌で目にする遠達性は、その方が感覚的に語っているだけでしたので、私としてはそのレベルでは遠達性を理解した気にはなれませんでした。
このブログを始める前から、私にとって遠達性は大きな謎でした。いつかこのブログで遠達性について書きたいと思っていたのですが、何もわからないので書きようがありませんでした。でも最近になって、ある仮説についての音響学的な裏付けを発見したので、遠達性の謎を全て解明したとは言いませんが、中心的な部分に関しては、それなりに説得力のある仮説を提示できるのではないかと思います。
そうです、あくまでも遠達性に関する仮説の提示です。実験で確かめられれば一番よいのですが、残念ながら、私には実験のための機器や設備が十分にありませんので、実験結果で仮説を裏付けることは出来ません。その仮説についての信頼性は、これを読んだ皆さんが判断していただければと思います。
まず最初に、遠達性を左右するであろう3つの要素を挙げます。
- 音の大きさ
- 音の指向性
- 音の質
1は自明だと思います。大きな音なら遠くまで届く、です。
2も分かりやすいでしょう。音が四方八方に散らばるのではなく、ギタリストにとっての前方に向かって指向性を持って出ていくと遠達性が高いと言えるでしょう。何故なら、遠達性とはギタリストの横や後ろに対して遠くへ届くことを意味しておらず、ギタリストの前方に対するものだからです。
どのような構造、材質、特性のギターが前方への指向性が高いのかは私には不明です。個人的な直感では、ギターの表板がよく振動し、側板や裏板があまり振動しないようなギターは前方への指向性が強そうに思いますが、あくまでも直感であって、特に裏付けはありません。
ただし、以前テレビ番組でストラディバリのヴァイオリンの音を測定していて、他のヴァイオリンにないストラディバリウスの特徴として、前方への指向性の強さが明らかになっていましたので、ギターにおいても、前方への指向性と遠達性を結びつけるのに無理はないと思います。
問題は3です。音の質と遠達性との関係。これが私がずっと謎に思っていた点です。遠達性の高い音質というものはあるのか、あるとしたら、どういう音質だと遠達性が高いのか。実はある仮説を持ってはいたのですが、その仮説の理論的裏付けが全く出来ていなかったのでした。
この仮説については次回に説明したいと思います。
つい先程、「遠達性」をGoogle検索していて気付いたのですが、2018年10月号の雑誌「現代ギター」では、遠達性についての記事が載っていたようですね。私はその記事を読んでいないのですが、読んだ方のブログによると、その記事の中で、ある方が遠達性と音質について私の仮説とは逆のことを言っていたようです。
もし「現代ギター」2018年10月号を読まれた方がいらしたら、次回の私の仮説およびその根拠と現代ギター記事の内容を比べて、感想をお聞かせ願えれば幸いです。私の仮説には一応、音響学的というか流体力学的でもある根拠は用意しているつもりです。
では次回。キーワードはやはり「倍音」です。